その指令は昼を少し過ぎた頃に下された。


飴色をした重厚な造りの執務机。 その机には本来の主である分室長の加純ではなく、神奈が腰を掛けていた。 書類整理かなにかやっているのだろう。 静かな部屋の中にキーボードを叩く音が規則正しく軽快に響く。


その机から少し離れたところで鷹矢は

頭の上にリンゴを乗せていた


(…これ、本当に修行なのか?)



今から一時間ほど前。 山積みにされていた書類の分別を終えた鷹矢に神奈はリンゴを一つ手渡し、精神統一修行を命じた。


「あの…」

「何ですか?」

突然リンゴを手渡された鷹矢は困惑のまなざしを神奈へ向ける。

「このリンゴ、何に使うんですか?」

まさか食べる訳ではないだろう。 鷹矢の疑問は当然のものだ。 精神統一修行にリンゴ。


困惑する鷹矢に神奈は至極当たり前とでも言うように、真面目な顔で答えた。

「乗せるんですよ」

白く華奢な指がスッと指し示した。


「頭に」


…あれから一時間。 鷹矢は指示通り頭の上にリンゴを乗せ、床の上で胡座をかいてジッと座っている。


(いつまでやってりゃいいんだろ…)

いい加減飽きて…いや、疲れてきた。 そんなことを考えている時点で既に精神統一修行になってないのだが、当の鷹矢はそのことに気づいていない。 ようやく雑用から解放され、修行らしい修行が出来ると思ったら、こんな…


(よく分からない修行…)

神奈の方をちらりと盗み見ると、鷹矢のことなど気にした様子もなく黙々と書類の処理をしている。

(俺がいること、忘れてるんじゃないか?)

そんな疑問が頭を過った時だった。

バサバサバサ…っ!

羽音をたてて一羽の鳥が舞い込んできた。 漆黒の美しい鴉 今までパソコンと向き合っていた神奈がスッと腕を伸ばす。 鴉はぐるりと一周天井を旋回すると、神奈の差し出した腕にふわりと降りてきた。


―― 伝書鴉

主に諜報占星部が使う伝達用式神であるそれは伝達速度は特別速くない(と言っても、何種類かある伝達用式神の中ではということだ)が、 何処にいても確実に相手に情報を届ける事が出来るという点で非常に優れていた。 最近はメールなど、オンライン上で任務指示が下されたりもするのだが、任務執行中は確認が出来ないのが難点とされている。 その点、この伝書鴉は空がある場所であれば文字通り何処へでも確実に情報を届けられる。 時々伝達妨害に遭ったりするが、その場合は式神と共に情報も完全に破棄され、情報漏洩の心配もない。 そういった点から、常に現場に立つ討伐祈祷部の院師はこの伝書鴉を重宝していた。


神奈が慣れた手付きで書簡を取り出すと、役目を終えた鴉は音もなくその姿を消した。 そして素早く目を通し、その書簡を人差し指と中指で挟むと、ボッ!という音とともに書簡から火が上がる。 神奈はそれを平然とした顔で、重要書類の散らばった机の上に放った。


火は瞬く間に他の書類に燃え移る…事はなく、書簡だけを燃やして消えた。 灰も残ってない。


「鷹矢君」

「はい」

鷹矢はリンゴを乗せたまま器用に神奈の方を向いた。

「本部から任務指令が下りました。 …出かけますよ」


「…! は、はいっ!」

あからさまな鷹矢の喜びように神奈は心の中で苦笑する。

(判りやす過ぎ…)

鷹矢はリンゴを頭の上から降ろすと、いそいそと外出準備を始めた。 その後ろ姿を神奈は書類を片付けながら見つめる。 ふいに不安が頭をよぎったが、新人とはいえ鷹矢も討伐祈祷部の陰陽師の端くれ。


いつまでも雑用をさせとく訳にはいかないし、現場にも少しずつ慣らしていかねばならない。

(他の連中がどんなペースで教育してるかなんて、興味ない…)

私は私のペースで、方法でやらせてもらう

誰にどんな反感を買おうとも…


「ぎゃーーーーーーーっ!!!!!?」

「!?」

突如響いた鷹矢の悲鳴 続いて聞こえてくる落下音。


神奈が慌てて悲鳴の聞こえた方へと駆け寄ると、そこには倒れた本棚に押し潰された鷹矢の姿…

「はふへへー…(助けてー…)」


(…やっぱり、連れてくの止めとくかな)


あまりにも無様な鷹矢の姿に、神奈が酷く脱力したことを誰が責められよう。



窓の外は薄く、雲がかかり始めていた



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