戻る 進む Indexゆっくりと陽が西へと傾き、空が茜色に染まる。 静寂の部屋の中、その女 ―― 神奈は窓枠に腰を掛け外の景色を眺めていた。
美しく整ったその顔に薄っすらと微笑みを浮かべて…――― カタン音のする方に気だるげに目を向ける。「おかえりなさい、加純さん」「ああ」加純は短くそれに応えると、窓際の壁へと背を預けた。 端整なその顔が茜の陰影に彩られる。
「…『例の部下』に無事会えたようだな」そう言うと加純はスーツのポケットから煙草を取り出し、それにカチリとライターで火をつけた。 ゆるりと煙草の薫りが広がる。
「はい。無事に会えましたよ。初対面でいきなり『貞世』とか言われちゃいましたけど」―― 貞世?煙草を銜えたまま加純が訝しげに眉を顰める。 そんな上司の様子を気にとめた様子も無く、神奈は楽しげに続けた。
「なかなか見込みのあるヤツでしたよ。私の部下としては十分だ」スッと加純の方へ手を差し出す。 手の平にマルボロとライターが納まった。
「部下なんて面倒だから、使えそうにないヤツだったら新河のところに異動(まわ)してやろうと思ってたんですけど…」
「オイ」繊細な指先は慣れた手つきで煙草を取り出し火をつける。 大して美味くもなさそうにそれを一吸いし、吐き出す。 紫煙のベールに覆われた神奈の顔には不敵な微笑みが浮かんでいた。
「私の言葉に惑わされず、はっきり『自分で会って付き合ってみないと見極めることなんて出来ない』って言い切ったんですよ。 少しだけ『言惑』かけてやったのにも関わらず」
紡ぐ言葉に己の霊力を乗せ、相手を惑わし操る言霊の一種『言惑』神奈ほどの実力の持ち主が使えば『少し』と言えども結構な効力を発する。 経験の浅い新人連中はもちろん、凡庸な院生がその術中に嵌ってしまうほどには…
「読心に関する警戒は全く無しでダメダメでしたけど、コトバに惑わされないその『強さ』は」ニヤリ、口角を持ち上げて笑った。「気に入りましたよ」夕闇が迫ってくる。 茜色の光の帯もその鮮やかな彩りを失い、ゆっくりと静かに消えていった。 昼下がりの空に輪郭も朧げに浮かんでいた月が徐々に己の存在を主張し始める。
「それじゃあ神奈、あとは頼んだ」「はいはい…ってかそれ、私より志紀に言った方が良いと思いますヨ?」腕を組み、軽く笑いながら神奈が言った。「お前から伝えとけ」加純はそう言い捨てると、慣れた手つきで印を結んだ。 次第にその姿が薄らいでいく。 別段驚いた様子も見せず神奈はその様子を見守り、完全に消える間際
「いってらっしゃい」と小さく呟いた。再び静寂が訪れる。 神奈は先程まで自分が腰掛けていた窓を静かに閉め、そして重厚な作りをした飴色の執務机に近付くとその机の上に置いてある鍵へと手を伸ばした。
―― カサリ机から書類が舞い落ちる。『06年度新入院生 鷹矢皇海に関する調査書』ああ、これは昨日加純さんが持ってきた…それを拾い上げると、別段興味も示さず元の場所へと戻した。 そう。だってこんな情報(モノ)見たって…
「実際に付き合ってみなきゃ、見極められませんからね」蒼黒の瞳を細め、白猫は美しく微笑んだ。